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中日新聞

名古屋空襲で爆弾が直撃し多数の死者が出た堀川に架かる桜橋で、映像製作を振り返る森零監督(右)と編集の諸冨祐紀さん=名古屋市中村区那古野で
2012年4月30日

太平洋戦争末期に六十数回繰り返された名古屋空襲。体験者七十人の証言で全容をたどった映像作品を、名古屋市東区の映画監督森零(ぜろ)さん(47)が製作した。「今しか聞けない声を届けたい」。初めて口を開いた人、撮影後に亡くなった人も。上映会は三十日午後二時から名古屋市西区役所のほか、名古屋城が焼け落ちた五月十四日には城内で、二千六十八人が犠牲になった「熱田空襲」の六月九日は熱田区内で上映する。

 「黒焦げの死体の山に潜り、熱さから逃れた」「電線にちぎれた腕やあごが引っかかっていた」「今も爆弾の破片が背中に入ったままです」−。矢継ぎ早に高齢者が現れては、昨日の出来事のように空襲を語る。長くても二〜三分、短いと一言で次の人に。名古屋城の炎上はコンピューターグラフィックス(CG)で再現。九十分あるが、瞬く間に過ぎていく。

 森さんは二〇一〇年、名古屋の祭りの記録映画を撮影。爆撃で多くの山車が焼失したことを聞き、空襲を伝えたいとの思いが湧いた。体験者が高齢化している現実も背中を押した。昨年春から今年一月まで、五十時間分を収録。四百時間かけ、知人の映像作家諸冨祐紀さん(30)=安城市=と編集した。

 やけどが元で破傷風にかかり、脚を切断した女性。名古屋城の堀に漬かって生き延びた人。「みんな必死に話してくれた」。少なくとも二人が撮影後に鬼籍に入った。空襲だけでなく、米軍の捕虜の処刑や玉音放送の証言も。処刑を目の当たりにした女性は「嫌だった。その後はトイレにも行けなかった。でもやめてと言えば、私が捕まっちゃう」と当時の思いを打ち明ける。

 上映会は五月二十六日、中区の専門学校「名古屋ビジュアルアーツ」でも開く。いずれも無料(名古屋城は城の入場料が必要)で、事前に申し込む。上映の依頼も受け付けている。

 焼け跡からの復興を証言で振り返る戦後編を合わせ、計百三十五分のDVDも作った。三千円以上の活動協賛金を寄付した人に配る。(問)森さん運営の名古屋活動写真=電052(581)1201

 (日下部弘太)

<名古屋空襲> 1942(昭和17)〜45(昭和20)年、航空機工場の集中していた名古屋を壊滅させるべく、米軍が繰り返し爆撃した。7858人が死亡し、1万378人が負傷したほか、13万5000戸の家屋に被害が出た。