リンクページへ戻る

 

名古屋空襲、肉声今こそ ドキュメンタリー映画制作

2011年6月9日  中日新聞

店先で小嶋春子さん(左)を取材する森零さん=名古屋市西区の円頓寺本町商店街で

 太平洋戦争中、米軍機が六十数回来襲して街を焼き、7800人の命を奪った名古屋空襲。名古屋市東区の映画監督森零(ぜろ)さん(46)が、体験者の証言を集め、ドキュメンタリー映画を制作している。一連の爆撃で最も多い2068人が亡くなった日から、9日で66年。

 開府400年の昨年、名古屋の祭りの記録映画を撮った際、多くの山車が空襲で焼失した経緯を聞き、当時の人や街への関心が深まった。体験者は高齢化しており、取材は急いで3月に始め、これまで5人に話を聞いた。

 森さんが雑貨店を営む西区の円頓寺本町商店街でクリーニング取り次ぎをしている小嶋春子さん(78)もその一人だ。空襲に遭ったのは1945(昭和20)年3月19日未明。小学6年生だった。卒業式のため、前日に疎開先から中区丸の内の自宅に戻っていた。

 育ての母らとしゃにむに逃げ、近くの橋まで来た。その時、上空の爆撃機B29から豆粒のような物が放たれた。「爆弾だ」。直感して伏せようとした瞬間、目の前でさく裂、体を吹き飛ばされた。

 気が付くと周りは燃えさかる炎。隣にいた男の子は立ったまま火に包まれていた。B29が去り、遺体の転がる焼け野原を名古屋城まで歩いた。一晩で826人が犠牲になった。一緒にいた叔母も3日後、遺体で見つかった。

 その光景を「悲惨だった。例えようもない」と振り返りつつも「もう終わったこと。体験していない人には理解してもらえないでしょ」とこれまで積極的に語ってこなかった。

 森さんは、身近にあった哀史を心ならずも封印するこうした人たちの物語を記録したいと思う。「市井の庶民の歴史を残したい。体験者が減りつつあるが、逆に今だから話せることもある」。年末にかけて数十人に取材し、40〜60分の作品にまとめる。戦後復興の歩みも聞き「東日本大震災の被災地を勇気づけられたら」とも願う。

 体験を話してくれる人や写真など資料の提供、活動への協賛を募っている。(問)名古屋活動写真=電052(581)1201 (日下部弘太)

 【名古屋空襲】 1942(昭和17)〜45(昭和20)年、航空機工場の集中していた名古屋を壊滅させるべく、米軍が繰り返し爆撃した。7858人が死亡し、1万378人が負傷したほか、13万5000戸の家屋に被害が出た。